朝倉街道を行く(下)

〜 鯖波・牧谷峠から鳴鹿渡・丸岡(豊原)まで 〜

*地図は(上)を参照下さい

東大味、一乗谷朝倉館

 榎峠を越えると、全面に田園地帯がひろがり、いよいよ福井平野の南端に出たという思いにとらわれます。このまま北上すれば足羽川ですが、初めに紹介した「越藩拾遺録」の末尾にあるように、東大味町から鹿俣(かなまた)町へぬける街道があり、これが朝倉街道と一乗谷朝倉館を結ぶ、大手道となっていました。
 この大手道にも朝倉氏の家臣の屋敷が置かれており、義景時代に朝倉氏に仕官した明智光秀の屋敷もここにありました。越前長崎称念寺門前で貧困生活をしていた光秀夫妻は、仕官が叶い、この地に住居を構え、その跡が明智神社として保存されています。
 天正元年八月の織田信長の越前侵攻や、天正三年の再侵攻の際、かつて世話になった住民を心配した光秀の気遣いで、この地は戦火を免れたといわれています。
 光秀の死後から今日まで、三軒の農家が「逆臣」といわれた光秀を、世間をはばかりながら祀り続けて今日至った話は、最近になって全国に知られるようになりました。
 東大味から鹿俣町への道はゆるやかな山あいの道で、ちょっと狭い感じはしますが、舗装されており、現在は車で楽に峠越えできます。この付近には最近まで石畳の朝倉街道跡が残っていました。
 鹿俣町から朝倉氏遺跡までは直ぐです。一乗谷朝倉氏遺跡はあまりにも有名ですので、ここで細かく紹介はしません。
 分館「戦国大名越前朝倉氏」で詳細にとりあげています。

東郷、足羽川

 さて、朝倉氏遺跡から元の道にもどり、東大味から東郷方面へ北上します。県道福井今立線を直進し、深見町田中の交叉点を右折します。しばらく進むと、東郷の町中へ入る手前の右側の斜面に、槙山城跡の案内板が目に飛びこんできます。朝倉氏時代に防衛上の枝城として築かれたもので、朝倉氏滅亡後の豊臣時代には長谷川秀一が城主を務めたこともあります。車で簡単に登れ、本丸下には駐車場もあるの、是非登って見て下さい。この小高い山は城山と呼ばれており、頂上からは東郷から足羽川岸までが遠望できます。中世には、街道を扼する拠点として重要視されていたと思われます。
 そんな感慨に浸りながら、東郷の町中へ。東郷の中心を通る道路には、真中を川が流れそれを囲む町並みも昔の宿場をほうふつとするものがあります。懐かしい感慨にひたりながら、川沿いの道をしばらく散策することに。川も以前よりなんとなくきれいになっているようです。
 東郷の町中からさらにまっすぐ北上すると、すぐに足羽川に出ます。昔であれば、ここで渡河することになりますが、ちょうど橋が架かっていますのでこれを利用すれば、一気に対岸の成願寺町へ入ります。

成願寺から小畑坂まで

 足羽川を渡ると、国道158号にぶつかりますが、ここはそのまま横切って北上します。
ぶつかったところが、成願寺町ということになります。道は山裾でT字状になっていますので、左折、さらに酒生小学校の前の交叉点で、右折し北上します。
 右手には、吉野ケ岳から続く尾根の突端が突き出ておりここから小畑坂のある坂下町まで、一直線の道です。
 しばらく進むとりっぱな建物の岡保公民館が見えてきました。よく見ると、駐車場の向こうに「岡保地区ふれあいマップ」という立派な看板が立っています。朝倉街道に関係した何かが書かれてないか探してみると、街道沿いに大畔縄手(おおぐろなわて)古戦場跡と書かれています。また、街道から少し離れていますが荒川沿いに殿下・桶田口古戦場跡とあります。
 さっそく地図を参考に古戦場跡を探すことにします。
 大畔縄手古戦場跡はさっき通った吉野ケ岳からの尾根の突端の下あたりです。少し戻って、岡西谷町方面へはいると直ぐ近くに、碑文を覆った小屋をみつけました。金網越しに中をみるといわくありげな石碑です。ついで荒川付近の殿下・桶田口古戦場跡もいってみましたが、こちらの方は、何も見つけることはできません。あたりに説明板もないため、この時点ではこのあたりが中世の合戦場であったのかという感慨のみでした。
 大畔縄手古戦場の供養碑は、戦死者をまつった供養塔のようです。岡保一帯は、朝倉氏と永く越前守護代を努めていた甲斐氏が、越前の支配をかけて激しく戦った激戦地で、文明六年(1474年)五月に殿下・桶田口の戦い、翌閏五月には波着寺・岡保(大畔縄手)の戦いと、この辺りで激しい戦いがおこなわれ、両軍の戦死者で埋め尽くされるというような凄惨な状況となったようです。
 「真盛上人往生記伝記」によると、延徳四年(1492年)岡保の西光寺で病に臥せっていた真盛上人にある人が訪ねてきて、何用か尋ねたところ、二十年ほど前にこの近くの大畔縄手で誅殺された亡魂で、上人に念仏回向してもらって修羅道からの苦しみから免がれたいと申し出たので、十念を授けたところ、たちまち消え失せたとのことです。
 上人は後で人に尋ねたところ、以前この辺りで激しい合戦がおこなわれ、甲斐方の者が多く討たれたことを知り、大畔縄手に卒塔婆を立てて、西光寺で百万遍の回向をしたとのことです。
 いまは、平和で静かな里といった趣ですが、戦国の世の厳しさを垣間見たようで、厳粛な気持ちで供養塔の近くに今もある西光寺にお参りをすることにしましょう。

 さて、気分を変えて、さらに北上しましょう。気持ちのいい直線道路を爽快に進むと、やがて、北陸自動車道と併走するようになり、やがて朝倉街道は二つのルートに別れます。
 一つは坂下町方面から松岡に入り、九頭竜川を渡河する道で、直線で進んできた道を右折して、細い道に入り小畑坂を越えて松岡に入ります。
 もう一つは、そのまま直進して中之郷に入り、九頭竜川を渡河するルートです。
 最初のルートから見ていきましょう。

松岡から九頭龍川

 小畑坂は道幅は狭いですが舗装され、今も生活道路として地域の人達に活用されているようで、木々が鬱蒼と茂る坂の両側の風景のみが往時を偲ばせます。坂の距離は思ったほど無く、あっという間に通りすぎると、松岡町宮重地区が眼前に広がってきました。
 小畑坂から下ってT字路となっているところを、松岡方面に左折、再び北上します。
しばらくいくと、中部縦貫自動車道越坂トンネルの道と交叉しますが、そのまま真っ直ぐぬけてさらに北進すると、松岡中学の横を通って勝山街道との交叉点にぶつかります。
 ここはもう松岡町の中心街で、歴史を感じさせるような建物があるかと思えば近代的なビルもあり、なにより勝山街道を行き交う自動車の喧騒に、これまでとは違ったまるでタイムトンネルを抜けてきたような不思議な感覚におそわれます。
 ここを横切って進めば程なく九頭竜川にぶつかりますし、右折して永平寺方面へいけば、東古市の交叉点から九頭竜川、そして昔から渡河地点で有名な鳴鹿というルートを取ることができます。さて、どう進むべきか?。「越藩拾遺録」やオーソドックスにいけば、鳴鹿方面ということになりますし、地形的にはこのまま進んで現在の五松橋地点で渡河した方が合理的な気もします。昔の街道は、川の部分では流動的であったようですし、気象条件によって渡河地点は臨機応変に対応していたものと考えられます。

中ノ郷ルート

もう一つのルート、「中ノ郷ルート」はどうでしょうか。坂下地籍には入らずに直進して原目−藤島−中ノ郷を経由して九頭竜川を渡河する方法で、初期の朝倉街道の主流と考えられます。中ノ郷は九頭竜川の左岸にある集落で、古代越前国足羽郡十五郷の一つに数えられ、室町初期に一乗谷(宇坂庄)とともに朝倉氏が獲得した越前国内七ヶ所の地頭職の一つで、いわば、一乗谷とここを結んだのが最初の朝倉街道ともいえるわけです。
 また、ここは一向一揆との合戦の場としても有名で、永正三年(1506年)、加賀から越前に侵入してきた三十万とも言われる一向衆と甲斐牢人の連合軍を九頭竜川をはさんで対峙、朝倉教景(宗滴)を大将とする朝倉軍はここ中ノ郷に本陣を置き、これを打ち破った(九頭竜川大会戦)場所でもあります。
 ここは真っ直ぐ進むことに。やがて、九頭竜川の流れが見え隠れして、やはり、福井県を代表する河川、九頭竜川はでかい!。あらためて眺めると、その思いがひしひしと胸にせまってきます。昔のつはもの達はこの川を馬で、あるいは徒歩で渡ったのかと思うと、ただただ凄い!としか言いようがありません。本当に、いったいどんなふうに渡ったのでしょうか。現代人には想像もつかない世界です。
 九頭竜川の堤防にたたずんで、川の流れを眺めながら、しばし中世の世界に思いを馳せる次第となりました。



 川を渡れば、あとは「越藩拾遺録」によれば丸岡までということになりますが、これは江戸時代に書かれたためこのような表現になっていますが、この時代の丸岡とは当然豊原のことです。
 さて、今回の空想の旅は、美しい九頭竜川の豊かで激しい流れを見ながら終ることにします。
 

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本稿は福井商工会議所報「Chamber」2000年1月号掲載を一部改稿したものです。
無断転載はお断りします。

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