戦国越前を支配せよ・上

〜 朝倉氏の越前制覇をめぐる合戦場を訪ねて 〜

 越前守護職であった斯波氏は 、尾張・遠江の守護も兼ね、室町幕府が安定するなかで「三管領筆頭」として、幕政に重きをなしました。
 一方越前守護代甲斐氏も、陪臣としては前例のない室町将軍の行幸を毎年のように得られる名門で、守護斯波氏に代わり、越前支配を着実にしていきました。
 この矛盾は斯波氏の正統が絶え、庶流の大野郡守護斯波持種の子である義敏が家督を継承すると一気に爆発します。大野出身で越前国内の事情に詳しい義敏は、守護代甲斐氏らが主家をないがしろにしていると考え、重臣である甲斐氏、朝倉氏と激しく対立します。甲斐氏らに圧迫されていた国人層は 、守護斯波義敏を支持し、越前国内さらに京でも守護方と守護代方が相争う事態に発展します。
 このことが将軍足利義政の逆鱗に触れ、義敏は家督を剥奪され、一旦は子の松王丸に継承されるものの、将軍義政の命令で 新たに渋川義廉が名族斯波氏の家督継承者とされます。
 実は、 この頃幕府は、関東公方足利成氏討伐で、斯波氏の弟分渋川氏との関係を強め、また関東で は渋川氏と斯波氏宿老の甲斐氏・朝倉氏などは共同戦線を張っていたため、渋川氏からの養子でも理解が得られると考えたのかも知れない。
 まさに大乱の前兆そのものでした。

プロローグ 勃発!応仁の乱

 家督を剥奪された斯波義敏は大内氏を頼り没落しますが、今度は将軍と渋川氏の関係が悪化したことを捉え、執拗に将軍に赦免交渉を行いますと、将軍義政は自分が家督を命じた義廉からこれを奪い 、今度は義敏に与えるなど、無定見を繰り返します。
 この斯波氏の家督をめぐる内紛に、足利将軍家の家督争い、斯波氏と同様有力な一族であった畠山氏の家督争いがからまって、ついに世に言う「応仁・文明の大乱」が京都にて勃発(応仁元年・一四六七年)することになります。
 守護家斯波義敏が東軍に属せば、越前守護代甲斐氏や朝倉氏らは、渋川流の管領斯波義廉を推戴して西軍に属し、京での抗争参戦しますが、その中でも朝倉孝景の活躍は目覚ましく、「応仁記」にもその凄惨なまでの戦いぶりが特記されています
 さて、応仁の乱勃発時、甲斐氏や朝倉氏が京の西軍の中心勢力であったのに対して、東軍に属した斯波義敏は越前に下向して次第に影響力を強め、西軍方甲斐氏、朝倉氏らを掃討しはじめると、越前における西軍一党は斯波氏の権威のまえに遍塞していきます。

朝倉孝景の越前下向

 孝景はこの状態に業を煮やし、京の戦線を離脱して越前へ下向します。この背景には、当初中立的立場にあった将軍足利義政が東軍への肩入れを明確にしたため、いつまでも西軍に属することの不利を考えたことと、越前守護代甲斐氏とともに西軍に属する限り、いつまでも甲斐氏の配下から脱却することはできず、朝倉氏の将来も限られたものにならざるを得ないこと、さらに、管領細川勝元から寝返り工作も受けており、名門甲斐氏にとってかわり、越前守護代職への就任という野望が膨らんできたことがあったようです。

 帰国した孝景はしばらく事態を静観していますが、将軍・管領からの執拗な催促を受けてついに東軍に「正式」に寝返り、西軍甲斐氏への攻撃を開始します。時に文明三年(一四七一年)のことです。
 しかし、このことは、斯波本宗家の執事としてこれまで長年越前守護代を勤めてきた甲斐氏との決定的な対決の構図をうみだし、越前における甲斐・朝倉による戦乱の時代が始まる事になります。

河俣の合戦(文明三年七月、鯖江市上河端町一帯)

 戦国朝倉氏の初代孝景が、越前支配の第一歩を踏み出した合戦は、現在の鯖江市上河端町あたりでおこなわれた河俣の合戦とされています。
 当時の越前守護代甲斐氏は、現在の武生市にあった府中守護所を本拠地にしていました。孝景は、甲斐氏を打倒するためには、一乗谷と府中の中間地点である河俣一帯を押さえる事が、戦略上重要なことであると考えたようです。
 ここでの合戦に勝つため、孝景は守護代就任を旗印に、国内の有力者や加賀の国まで協力を依頼しましたが、逆に諸氏の反発を買ったのか四面楚歌の状態になり、敗北を喫しています。

 さて、まずはこの合戦の跡を訪ねてみましょう。場所は鯖江市上河端町一帯(地図)ということになります。ちょうど、北陸自動車道鯖江インターあたりが河俣合戦場でしょうか。今から五百四十年余り前の事ですから、何か残っているということもないようです。ちょうど北東には、文殊山の榎坂を越えて一乗谷へ、そして反対の南西には武生市へという位置関係になっています。
 上河端一帯を見渡せる所としては、西山公園のある長泉寺山があります。長泉寺山の頂上へは、公園の駐車場から歩いて十五分程で上がることができ、頂上の展望台から鯖江インターが良く見えます。その北あたりです。
 当時は長泉寺山と文殊山との間の広い草地の平原のようだったのでしょうか。この一帯で合戦が行われたということを、今では想像するのが困難なくらい、人家と水田そして山の緑で溢れた平和な風景が展開しています。

新庄の合戦(文明三年八月、鯖江市新庄町一帯)

 河俣の合戦で苦杯を喫した朝倉氏でしたが、国内の有力国人衆を味方につけるには、やはり守護斯波氏を担ぐのが一番とばかり、大野にいて同じ東軍となった守護斯波義敏の子義良(松王丸)をいただくことに成功します。
 守護の斯波義敏と孝景は極めて仲が悪く、同じ東軍になったといっても、腹の探り合いの状況だったと考えられます。このためかって 一旦は斯波家督を継承したものの、義廉に代えられて僧籍に押し込まれたこともある子の義良(松王丸)と、義敏の父親持種を担ぐことで妥協が成立したと考えられます。
 しかし、斯波氏を担いだことによって、国内では反朝倉氏・親甲斐氏に心を寄せる国人も、公然と朝倉氏へ反旗を掲げることは難しく、これによって 形勢逆転、朝倉方に国人達が集まり、翌八月には早速反撃開始とばかり新庄の合戦に臨み、大勝利を得ることに成功します。この時朝倉軍は甲斐方二百名を討ち取ったとあります。

 早速今度は、鯖江市新庄へ。上河端から二〜三Kmほど南に下がった、三里山山麓で、武生市味真野方面から流れてくる鞍谷川(浅水川)に沿って合戦地が展開しているようです (地図)。ここからだと、武生の中心地まで五Kmほどしか離れていません。ここでの勝利は、朝倉氏による越前支配へ大きく前進することになりました。新庄にも古戦場という雰囲気はなく、現在は静かで落着いた風情の集落が点在しています。

清水谷の合戦(文明三年九月、池田町清水谷)

 さて、新庄の戦いに勝利した朝倉氏は、翌月には池田に軍を動かし清水谷という場所で池田氏と一戦を交えています。池田氏も古くからこの一帯を治めており、子守護代の立場にありました。
 早速池田へ行ってみましょう。
 朝倉氏の拠点一乗谷から池田へは、すでに押さえた河俣や三里山麓から今立の仲山を経由して清水坂峠越えで攻め入ったと考えられますが、現在は県道武生大野線を池田方面へ進めば、清水谷トンネルを通り池田町の清水谷に行くことができます。 (地図
 実際にいってみると、山深い緑豊かな所で、往時もかくやといった雰囲気で、かなりの距離を感じさせます。特に鯖江方面から池田へは、山々が緑の壁のようにそそり立っていて、当時のもののふ達がいかに鍛えられた強靭な精神力の持ち主であっても、大変であったろうという感じを持ちます。
 この戦いで朝倉方は重臣を戦死させていますが、大規模な戦いというわけではなく、何かに対する牽制といった印象をうけます。
 朝倉氏は甲斐氏を打倒する戦いをするため着々と布石を打っており、この合戦もその一環ではないかと思われます。当時の状況を考えてみますと、このあたりを支配し、池田氏を配下に置いていたのは家格の高い一族、どうも斯波氏の血筋の人物がいたようです。 将軍家とも付き合いのある斯波政綿なる人物も記録として残っており、今立郡守護のような形で、府中守護所から一定の独立性を保持していたと考えられ、ここまで甲斐、朝倉の戦いには中立の立場を取っていたようです。
 朝倉氏が、この時期清水谷へ軍勢をだしたのは、府中守護所攻撃を前にして、この人物が甲斐氏に味方をしないように牽制をしたと想像しますが、いかがでしょうか。

 

戦国越前を支配せよ・下 へ続く
 

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本稿は福井商工会議所報「Chamber」2000年7月号に掲載したものを一部改稿したものです。
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