戦国越前を支配せよ・下

〜 朝倉氏の越前制覇をめぐる合戦場を訪ねて 〜

 

府中守護所の合戦(文明四年八月、武生市中心街  地図

 有力な国人達を味方に付け、新庄の戦いで勝利を収めた朝倉氏は、いよいよ甲斐氏の本拠府中守護所に攻め入ります。八月六日ついに府中守護所は 陥落。この後甲斐府中衆は、坂井郡や杣山に逃れるが、やがては越前国において没落して行く事になります。
 さて、早速武生市街へ!府中守護所のあった場所は当然のことですがわかっていません。 一説には、「甲斐氏の府中守護所→朝倉氏の府中奉行所→前田利家の府中城」と発展したとの見解もありますが、甲斐氏の府中守護所陥落後の朝倉氏時代にも、府中守護所と朝倉氏の府中奉行所は並存しており、軽々断定はできません。朝倉氏が府中守護所と別に奉行所を置いていたこと、 そしてこの奉行所が後に府中城に転化したことは間違いなく、そうであれば、府中守護所は別個に存在したことになると考えます。その場所はどこかについては、別の機会に推理したいと思います。

 ただ、現在の武生の中心街付近か旧北陸道沿いであったと考えても、そう間違いではないと考えられます(現在の北陸道は新国道八号として郊外を走っています )が、その東側でJR武生駅のある中心部は、駅周辺整備事業も終了していて、気持ちのよいくらいきれいな町並みになっています。
 この地で敗北した甲斐氏は 、将軍家からも特別扱いされていたにもかかわらず、その後の没落で、今ではその痕跡を見出すことができず、謎の一族となってしまいました。

杣山の合戦(文明六年正月、南条町杣山)

 府中守護所を落とした朝倉氏ですが、越前の国内はまだまだ騒々しく、平定したとは到底言えない状況でした。特に、朝倉方が属していた東軍の巨頭、細川勝元が文明五年(1473年)五月に死去すると越前から追い出されて加賀に逃げていた、甲斐勢が反撃を開始、金津町細呂木のあたりで合戦を繰りひろげ、朝倉方は苦戦しつつも侵攻をなんとかくいとめました。
 このような甲斐氏との戦いは翌文明六年に入るとますます激しくなり、甲斐氏が立て篭もっていた杣山で合戦となります。一月中旬、甲斐氏 と大激戦となりますが、ようやくこれを打ち破ります。
 杣山は、現在は新田義貞をめぐる悲恋物語の舞台として有名ですが、一時越前守護足利(斯波)高経が立て篭ってここで生涯を終えたりして、中世をめぐる歴史には事欠かない場所です。
  もっともこの合戦は杣山の麓ではなく、山を望む日野川の河原付近であったようです。(地図
 甲斐氏にとっても杣山は残り少ない支配地であり、ここを失うともう後がないため、この日はまれに見る激戦となりました。
 最初は勝敗がつかず、朝倉軍も一旦は兵を引き、遠巻きにするしかなかったようです。その夜、甲斐軍は朝倉軍に夜襲をかけますが、失敗。翌朝、朝倉軍は意を決して冬の日野川を渡河し、甲斐側に攻め込みます。激突につぐ激突で川原は戦死者で溢れ、馬で歩けぬほどであったと言われています。多くの犠牲を払いながらもこれを何とか制圧します。

 今度は、杣山へ行ってみましょう。南条町を南北に縦断している国道三六五号を南下し、鯖波の聖ヶ橋で日野川を渡れば右手に杣山が迫ってきます。麓には濠跡や案内版、石碑などがいろいろあって実に親切です。 山麓はいま、居館跡などの発掘作業が行われています。
 心地よい日野川の流れを聞きながら、悠久の歴史に思いを馳せてみるのもよいものです。

大畔縄手の決戦(文明六年五月〜閏五月、福井市河増・殿下・岡保地区一帯)

 杣山合戦で敗れた甲斐氏は、今度は、坂井郡や加賀に逃れた牢人と合流し、北部からまたまた侵攻開始、九頭竜川を越えて、今の岡保地区あたりまで攻め込んできます。まず、五月には殿下・桶田(福井市河増町)、続いて翌閏五月には、そこから 二Kmほど南東の朝倉街道をはさんだ波着山の尾根が終わる辺りで激戦がくりひろげられました。この一帯は福井平野の東端にあたり、足羽川を越えれば一乗谷までは 目と鼻の先です。現地は朝倉街道が南北に波着山をかすめる様に走っていました。 また、この山麓には、反朝倉で、当然甲斐氏に親しい武将の館があったそうで、今でもその名をとって半助谷と呼ばれる館跡があります。 (地図
 ここを破られれば、本拠地に攻めこまれかねない状況の朝倉勢は必死に防戦、激戦につぐ激戦が展開され死屍累々といった惨状になりながらも、甲斐勢に大打撃を与え阻止することに成功します。
 五月の殿下・桶田口の戦いでは、朝倉氏景が活躍し、敵方を多数討ち取ったと伝えられています。また、翌月の波着寺、岡保の戦いでは、千福・甲斐法花院舎弟らを討ち取ったとされています。
 この合戦を大畔縄手の決戦と呼んでいますが、甲斐氏の反抗はその後も執拗に続くものの、単独での反撃・抗争はこれが最後のものとなり 、以降は連合軍での攻撃となります。

 この合戦はよほど犠牲者が多かったのか、後にこの地で没したものの霊が真盛上人の夢枕に立ち、成仏を訴えたことが、「真盛上人往生伝記」に出てきます。また上人が回向した大畔縄手の供養塔が、今でも小屋の中に収まっています。
 のどかで緑豊かな現在の風景のなか、歴史に刻まれた戦国の世の厳しさを思い起こさせる大畔縄手の供養塔です。


土橋城の合戦(文明七年、大野市日吉町)

 厳しく対立していた甲斐・朝倉ですが、今まで紹介した戦いで朝倉支配の構図が着々と整いはじめてきました。この状況を翻すべく 、大畔縄手の決戦(岡保・波着寺)の合戦で敗北した甲斐氏の当主甲斐敏光は 、戦乱終局のため東軍(幕府)へ招かれていたこともあり、文明六年十二月東軍(幕府)に帰順します。このため、今度は甲斐氏も守護斯波氏を擁立し、自身も翌年一月に朝倉氏に推戴されていた斯波義良とともに将軍 御所に出仕します。但し、遠江守護代を安堵されますが 、永年保持していた越前守護代復帰は朝倉支配を覆せず認められませんでした。

 一方の朝倉氏は 、文明七年越前国内で唯一支配力が及んでいなかった二宮氏支配の大野への攻撃に取りかかります。 しかし、ここで誰もが予期しなかった事が起きます。このような状況をみていた義良の父でもある守護斯波義敏は、朝倉氏の「越前乗っ取り」を懸念しはじめ、反朝倉の態度を固め 、四月、二宮氏がこもる土橋城に突然入城してしまいます。(地図
 今まで、守護の義敏−義良親子は東軍で朝倉氏に推戴されていたのですが、甲斐氏が東軍に帰順し、義敏−義良親子を推戴するようになったため、朝倉氏に対する義敏の反感は抑えることができなくなったでしょうか。

 一気に攻め落とすことを考えていた朝倉氏は、当代の守護が城内にいることで攻撃することができず、 城外に誘い出すなどしてこれを追い詰めるとともに、将軍に守護義敏が退城するよう周旋を頼みます。が、義敏の意思は固く、結局退城することはなく、ついに 朝倉氏は見切り発車で土橋城へ一斉攻撃をしかけます。このため守護義敏はやむなく城外に避難し、朝倉氏は守護義敏を護衛して京へ送り出すとともに、二宮党も国外へ追い落とし、越前一国の主要拠点を支配し手中にすることに成功します。

 その、土橋城跡を訪ねて大野へ行ってみましょう。大野市街は六間通りに面した日吉神社の境内がそうであるといわれているようです。神社の手前には、濠を思わせる池があり、境内も石垣のようなものがあちこちに見られて、それらしい雰囲気を醸し出しています。

エピローグ

 さて、越前支配をめぐる戦いはこの後も続きます。そのあたりの経緯を簡単に紹介しましょう。

 土橋城の合戦で一応のケリがついたかのように見えますが、事はそう簡単には運びませんでした。越前を武力押領した といっても、まだ、主要な拠点を制圧したにすぎず、また、追放された側の甲斐氏・二宮氏などが共同戦線を張り、守護斯波氏を担いで再度越前に進攻します。越前支配をめぐる兵どもの激しい戦いは、なんとこの後も続くことになるのです。

 さらに、それにも敗れた甲斐氏側は「越前牢人」として一向一揆と結びつき、執拗に越前奪還を試みます。
 そして、遠江守護代職にあるにもかかわらず、越前にかかりっきりの甲斐氏は、今川氏が遠江に侵攻したとき、最早対抗する力を失っていました。
 
 一乗谷の朝倉氏遺跡へいくと、そんな厳しい時代であったことを忘れさせてくれるほど、当時の人達の平和な暮らしが復元されています。朝倉氏の支配が強固となって、安定しだしたのは三代目貞景の後半頃で、京からの公家・文化人の来遊も多く一乗谷朝倉文化が花咲きました。 大畔縄手の決戦(岡保・波着寺の戦い)から四十年ほど後のことでした。
 一乗谷にある英林塚(戦国初代孝景の墓)は、夢を追い続けた兵どもの、 その後の戦いぶりをどう評価しているでしょうか。
 

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本稿は福井商工会議所報「Chamber」2000年7月号に掲載したものを一部改稿したものです。
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