信長、越前を支配す!(下)

〜 織田軍と越前民衆との戦い 〜


 天正元年八月二十日、朝倉義景は自刃し、信長は容易に越前一国を手に入れたかにみえましたが、逆に朝倉の旧臣や支配体制はそのまま残存し、火種は残ったままでした。
 越前は、蓮如の精力的な普及活動もあり、一向門徒が多く、朝倉氏とも度々戦火を交えましたが、織田軍に対抗するため和睦し共同戦線を構築してきました。パートナーの朝倉氏が滅亡しても、一向門徒はそのまま残ったわけです。信長が引き上げると、朝倉旧臣の勢力争いが勃発、これを引き金にして、越前全土を血の海とする織田軍との越前一向門徒の凄惨な戦いが展開することになります。

プロローグ

 信長は、最初に朝倉から織田に寝返った桂田長俊(前波吉継)を越前守護代とし一乗谷に置きますが、守護代となった桂田長俊は、専横のふるまいが目立ち、かつての上役にも傲慢な態度をとったといわれ、分裂の様相となります。
 特に不満を持ったの府中城主の富田長繁です。ほぼ同じ時期に朝倉を裏切り織田についた長繁からすれば、桂田一人が「いい思い」をしていることは到底がまんのできないことでした。このため、民衆の不満をそそのかし、天正二年一月吉田郡志比庄の一揆が蜂起すると、坂井郡、足羽郡の一揆も引き連れ、総勢三万三千で桂田長俊の一乗谷に攻め込み、一族もろとも殺害してしまいます。
 富田長繁は、次に、同僚の鳥羽(鯖江)城主である魚住景固も討ち滅ぼし、守護代気取りを演じますが、この混乱を真宗本願寺が見逃すことはなかったというのは余りにも当然のことです。

蜂起する一向一揆

 話をすすめましょう。本願寺にとっては、朝倉を裏切って延命した武士支配層を一掃して、越前を加賀と同じ「一向一揆体制」にすることが狙いであり、一向一揆の総大将として坊官である下間頼照を越前に下向させるとともに、主戦派の代表軍師ともいうべき七里頼周を金沢より越前に移らせます。こうして一向宗による旧朝倉家臣団への攻撃が開始さ れることになるわけです。
 二月中旬、府中城主富田長繁への攻撃は国中の一揆勢力が動員されたといわれており、総勢十三万八千が決起しました。しかし、長繁も歴戦のつわもので、篭城の不利を悟り、先制攻撃を開始、逆に四千の兵を引き連れ北の庄に向け進撃を開始、水落から長泉寺山付近で一揆軍と大激戦となりました。富田側優勢であったといわれますが、配下の者の裏切りにあい、後ろから鉄砲で撃たれ長繁はあえなく敗死してしま います。

 この後、一揆勢は武士の居館を次々と襲います。朝倉氏の越前制圧時に「屋形」(守護)を努め、後に客臣化したとはいえ、特別の家格を有していた旧守護家(義廉流)斯波氏の流れを汲む鞍谷氏の居館(御所)をはじめ千福、真柄、千秋など有力国人衆を攻撃、追放した。まさに武士による戦国支配体制に終止符をうつものであったといえます。

平泉寺攻撃

 朝倉氏の有力一族で、最後に義景を裏切り、自刃に追い込んだ朝倉(土橋)景鏡は当然のことながらこの事態に危機意識を持ち、家族と近臣を引き連れ、平泉寺に逃げ込んだわけです。
しかし、このことは平泉寺をも一向一揆に巻き込むきっかけをつくることに直結しました。本願寺は朝倉滅亡の張本人として景鏡誅伐を指示し、二月下旬袋田口(勝山)に押し寄せました。
 初戦は一揆側の敗退に終わったものの、平泉寺側が村岡山に砦を築くと一揆側に大打撃となるため、先手を打つべしと衆議一致し、四月一四日ここに城を築きはじめました。
 一方平泉寺側も、村岡山に城が築かれるのはいかにも不利ということで、八千三百の兵で攻撃に討って出ましたが、一揆側の抵抗は激しくすぐには決着が つきませんでした。
 村岡山の一揆勢からは、救援の使者が近くに布陣する一揆の本陣に届きますが、本陣は村岡山を救援するよりも直接手薄となった平泉寺を攻撃すべしとして、間道をとおり平泉寺を攻撃し 、火を放ちました。
 平泉寺に火の手が上がったのを見た僧兵など村岡山の寄せ手は、慌てて退却しょうとしますが、逆に、山頂の一揆勢に追い討ちをかけられ、多くの戦死者が出てしまいます。景鏡も最後の一戦として奮戦し切り込んだものの、首を討たれ、後に探し出された二人の男子とともに、父子三人同じ木に首を晒されたとあります。
 泰澄大師によって開かれ、六千坊を有した北陸屈指の大古刹平泉寺はこの戦いで灰燼に帰したのです。

本願寺の思惑

 一向一揆として燃え上がった越前民衆の戦いは、「百姓の持ちたる国」として自治の実現を目指すものであり、決して本願寺の越前支配を実現するためのものではなかったと考えられますが、本願寺は越前を織田軍に対抗するための拠点として軍事領国化することを意図していたわけで、ここに越前一向一揆の根本的な矛盾があったわけです。
 一揆の総大将として派遣された下間頼照が実質上の守護となり豊原寺に入ったわけですが、民衆にすれば、武士が坊官に代わっただけに過ぎません。また、年貢も門徒は半減とされたものの、各寺院に納める分も含めるとかえって増税になったケースもあり、不穏な状態となってしまいました。本願寺派は信長に対抗するための領国経営と門徒の支配・慰撫の両面作戦を強いられることになったので す。

信長越前に向け進攻開始

 天正三年に入ると信長の再進攻が近いとの噂が国中を飛び交うようになり、一揆側も海岸線と木ノ芽峠を中心に防御体制の整備に乗り出します。主な防御体制を紹介すれば
 府中龍門寺城に三宅権丞(加賀勢)
 今庄燧城に守護下間頼照
 木ノ芽城、西光寺丸に和田本覚寺、石田西光寺
 鉢伏城、観音丸に杉浦玄任、大町専修寺
 虎杖城に下間頼俊、久末照厳寺
 杉津砦に大塩円宮寺、堀江景忠
 河野浦河野新城に若林長門
がそれぞれ入り、固めたわけです。
 信長軍は天正三年八月一二日岐阜を出発、一四日には敦賀に入り、櫛川の武藤屋敷に陣を構えます。総勢十万五千ともいわれ、あまりの大軍に敦賀には入りきらなかったといわれています。
 一揆側の観音丸や鉢伏城から、織田の大軍を眼下の敦賀に見て、一揆軍の士気は急速に萎えていったのではなかろうかと予測されます。
 なお、徳川軍は総勢一万三千で北国街道を栃の木峠に向かい、敦賀には入っていないわけです。また、金森軍も美濃根尾谷から温見峠、また油坂峠を越えて大野郡に進攻しました。

一揆軍壊滅

 織田軍の総攻撃は八月一五日早朝からはじまったとされています。この日の天候は風雨ですが、信長は北陸道・木ノ芽峠攻撃の大手軍と海から杉津、河野を攻撃する搦め手軍の二軍に分けて総攻撃を開始しました。特に信長は海からの上陸作戦を重視したといいます。大手軍が木ノ芽城を初めとする峠一帯の諸城を牽制している間に、明智光秀、柴田勝家が杉津砦へ、羽柴秀吉は河野新城攻撃に取り掛かりました。戦いの火蓋は杉津砦ではじまりましたが、それはあっけないものであったといいます。杉津砦の守将の一人堀江景忠が裏切り、明智、柴田軍と対峙する一揆軍の背後から砲撃を加えたのです。このため城内はたちまち混乱、これに乗じて明智、柴田軍は乱入し火を放ち、砦を制圧。一揆軍は山づたいに河野新城に向けて逃走しました。
 一方、河野新城には秀吉軍が海から上陸して攻撃作戦を展開していましたが、守備隊と杉津から陸路逃れてきた一揆軍が合流して懸命の抵抗戦を展開するものの、一揆軍を追って明智、柴田の両軍も陸路河野新城に攻撃を開始するや支えきれず陥落、織田軍は搦め手ともいうべき海岸線沿いを確保すると、明智、羽柴、柴田の織田軍は馬借街道や太良越え を通って府中に殺到しました。この時府中の一揆軍は龍門寺城の三宅権丞を大将に守備にあたっていましたが、たちまち討ち取られてしまったといいます。
 一方木ノ芽峠や栃ノ木峠を守備していた一揆軍は、山頂より海岸の防御線が破られ火の手が上がるのを見て急速に戦意が喪失しました。
 もう、こうなると、誰も止める事が出来ません。守備の一揆軍はわれ先にと山を降り、府中を目指して逃亡をはじめますが、悲劇はここから始まります。すでに、府中は明智、羽柴の織田軍に制圧されており、逃亡兵を 手ぐすね引いて待ち構えていたのです。

大殺戮の実態

 一六日夜、敦賀から府中に入った信長は、家臣の京都所司代村井貞勝宛てに文を書いています。「今府中の町は死骸ばかりで足の踏み場もない」、府中に逃げ戻ろうとした一揆勢は待ち構える織田軍によって、全員殺害されたのです。その数は千五百ほどといいますが、府中周辺の一揆勢もこの日だけで2千人が犠牲になりました。
 しかし、これは序章にすぎなかったのです。一揆の残党狩は凄惨で、越前領内の坊主たち をことごとく大罪人として磔にかけただけでなく、連日各地で徹底した捕獲作戦が行われ、捕らわれた者は小姓達に命じその首を切り落とし、結果、犠牲になった男女は三万とも四万とも言われている悲惨なものでした。
 信長はこのあと、残党狩を行いながら本陣を豊原寺に移します、この時、たまたま奈良興福寺大乗院の尋憲が信長を訪ね、その時のもようを日記に書いているので紹介しましょう。
 それによると、討ち果たした一揆の数を数えるため鼻をそいで持ち帰っていることや、その日生け捕った二百人をつぎつぎと処刑している場面に出くわし、歎いている様子が書かれています。
 信長は、九月二日、豊原から一時北の庄に出て、北の庄城の普請を命じるとともに、論功行賞を行い、柴田勝家を北の庄に置き越前八郡を与えるとともに、大野郡を金森長近と原彦次郎に、府中の周囲二郡を不破光治、佐々成政、前田利家の三人衆に与えました。
 ついで、信長は越前統治についてかの有名な九ヶ条の掟を定めたわけです。こうして越前はご存知の柴田勝家の時代へと入っていくことになります。

 

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本稿は福井商工会議所報「Chamber」2002年1月号掲載を要約したものです。
無断転載はお断りします。

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